ナワラット先生とわたくし

(この文章は訳書『水の流れをやさしくすぎて』の訳者あとがきとして書かれたものです。)





 二〇〇四年十二月二十六日、インド洋アンダマン海津波が発生しました。

 即座に日本のジャーナリストからバンコクにいたわたくしに連絡が入り、数日後には報道助手として被災地のプーケットに連れて行かれました。それから三週間、わたくしは悲惨な現地の状況にまみれて働き続けることになりました。

 そんなわたくしの状況と並行して津波発生から数日後にエート・カラバオさんが作ってリリースした楽曲がきっかけになり、収益を被災地に寄付するためのチャリティーアルバムが発売されました。

 働きながら被災地で聴いたその楽曲に圧倒された私は一月三十一日にエート・カラバオさん主催でアルバムに参加したアーティストたちのライブがあるという情報を入手し観に行きました。

 会場は常設の大きなステージがあるビアホールでVIPルームが出演者の控室になっていました。そこにはスラチャイ・ジャンティマトンさんがいらっしゃいました。

 スラチャイさんとは二週間ほど前にパンガー県の被災者キャンプでお会いしたばかりでした。被災者慰問のライブを開催されていたのです。スラチャイさんもこのチャリティーアルバムに参加されていて、わたくしはその曲を被災者キャンプの広場に設置された小さなステージ前に体育座りしたまま聴いていたのでした。

 スラチャイさんはわたくしを見つけると自分たちのテーブルに誘ってくださいました。この日本人はひとりで被災者キャンプに取材に来てたんだよ、とテーブルの皆さんに私を紹介してくださり、わたくしはすすめられるがままにお酒をごちそうになったのです。


 そのテーブルにいらっしゃったのがナワラット先生でした。


 このチャリティーアルバムの冒頭には、ナワラット先生の詩の朗読が収録されていたのです。

 ナワラット先生のことは国家芸術家であり、日本語に作品がたくさん訳されている有名な詩人であることくらいしか存じあげておりませんでした。わたくしはテーブルにいた有名アーティストの皆様にすすめられるがままにお酒をかなり飲んでしまって気がつくと先生に絡んでいました。

 わたくしが「先生、文学ってなんですか?」といういかにも新宿ゴールデン街でタチの悪い文壇ゴロが酔っ払ってするようなめんどくさい質問をすると先生は、

「私たちが今話している言葉も文学なんだよ」とお答えくださいました。そのシンプルな答えは普段わたくしが考えつめている問題を全て解決するだけの説得力があり、わたくしは感動してさらにすすめられるがままにお酒を飲んでしまいほとんど泥酔状態になって先生に延々と質問を続けてしまったのです。


 国家芸術家の詩人がタダ酒飲ませてやった日本の売れない藝人から絡まれるという非常にゆゆしき事件発生です。


 これはもうある種の国際問題です。

 当然ながら先生とはそれっきりとなりました。

 そしてそれから五年ほどが経った二〇一一年三月十一日のことでした。

 今度は太平洋三陸沖で津波が起きました。その時わたくしはバンコクにいて自分の本を作っていましたが、日本で発生した津波のことを知ったとたんに五年前に自分がタイ南部の現地で見た惨状と今日本の被災地で起こっている現実が必要以上にリアルに想像されてしまい、精神的に不安定な状態になってしまったのです。

 自分の仕事もほとんど手に付かないまま日本に対して何ができるかと無駄に頭を痛める日々が続きました。そんな中、知人が参加するチャリティイベントがバンコク都内で開催されると聞き、いても立ってもいられずでかけていきました。三月二十七日のことでした。


 その会場にあったのがナワラット先生直筆の作品でした。


 のぼるちゃんこれ、ナワラット先生っていう有名な詩人の方が今回のイベントのチャリティーにって書下ろしの作品を提供してくださったんだけど、日本人に買っていただけるようによかったら日本語に翻訳してくれないかしら。

 イベントの関係者様にそう言われてわたくしの脳裏には五年前のあのビアホールのテーブルで泥酔してナワラット先生にからんでいる恥ずかしい自分の姿が再生されます。

 あのときに酔って先生に吹きまくった言葉の数々が五年後、津波とともにわたくしの身に襲いかかってきているのです。




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 イベント会場前の物販テーブルで何とかがんばって訳した日本語は直筆原文とともに即座に会場で販売されました。

 そして、一年後、ナワラット先生の公式フェイスブックにわたくしの日本語訳がイラスト付きで掲載されました。


 ああよかったよかったのぼるちゃんはどうやら先生のお役に立てたようです。


 そしてそれからさらに四年の月日が経ち、ラマ九世国王様がお隠れになられました。二〇一六年十月十三日のことです。

 わたくしはそのときパタヤに住んでおりました。日本でいえば熱海みたいな観光地です。そこにはわたくしの宿舎が用意されていました。

 二〇一三年から出稼ぎのために日本に戻って派遣で食いつないでいたのですが、数年前からタイに進出する日本企業の機械技術アドバイザーとして雇われ、パタヤで暮らしていたのです。

 わたくしは企業の一員として宿舎のまわりに渦巻く温泉観光地的(パタヤに温泉はありません)な非日常とお酒に飲み込まれる暮らしのど真ん中にいました。日本企業に雇われているのですからお酒もある意味仕事の一部でした。そんな暮らしの中で、自分の作品制作はほんとにほんの少しずつしか進みませんでした。

 そんな日々が続いていた時、友人経由でナワラット先生の関係者を名乗る方から連絡がありました。


 それが、この本の翻訳依頼でした。


 ナワラット先生の名前を聞いた途端、わたくしの脳内に十一年前のタチ悪い泥酔粗相映像が再生されます。

 あの夜の無礼はまだチャラになっていないんだよ、と言われているような気がしました。

 誰に言われているのかは自分でもよくわかりませんが。

 わたくしはとりあえず、引き受けます、と返事をしました。それ以外の選択肢はありえませんでした。

 そしてラマ九世国王様がお隠れになって二日後に、ナワラット先生の関係者様がわざわざパタヤまで来られました。

 空襲警報が鳴ったあとみたいに電灯が消え、街中喪に服したパタヤのとある店のテーブルで訳してほしいと原本を渡されました。詩集ではなくまさかのエッセイでした。分量は二〇〇ページ強あります。

 当時、二週間おきに十二時間拘束の夜間勤務に従事しておりましたので、どうがんばっても休日含めて一日平均二時間弱しか時間が取れません。

 わたくしはすかさず電卓を出して計算いたしました。当時の翻訳処理能力を基準にすると、下訳の一巡目ができるまでに最速で二年半かかります。

 わたくしは最低でも九巡目くらいまで下訳をいじらないと仕上がらないポンコツ翻訳者なので、翻訳作品として出来上がるまではさらに倍の時間がかかるのです。

 今の生活のままこの分量を翻訳してリリースまでもっていくとしたら完成まで早くて五年かかります。とわたくしは正直にそう言いました。

 ごねんんんん? と関係者様はびっくり即答されましたが、じゃいいや別の人に、とはなりませんでした。

 そりゃそうですタイ日文芸翻訳なんてできるできないにかかわらずやる人がほとんどいないわけです。

 年間一五〇万人以上もタイに遊びに来やがるくせにタイ人が書いた本を読む日本人は一万人もいないのです。

 そういった状況を踏まえた上でこんなの商売にならない仕事なのです。儲からないのにやる翻訳者なんていないのです。だからタイ日文芸翻訳者なんて存在自体が絶滅しかけてるわけです。

 原文を読んでみると見たこともなくネットで検索しても出てこない仏教用語満載です。パーリ語サンスクリット語かよくわかんないけど外来語起源の単語もあちこちに散らばりまくってます。

 さらにナワラット先生独自の詩的表現らしき文章が文語らしき単語でそれはもういやがらせのようにテキスト全体に散りばめられてます。

 翻訳者として絶滅しかけている上に絶望の連続です。

 ああこれ全部辞書とかネットで調べなきゃなんないのか。マジかよこんな難しい本五年じゃ終わんねえよ。

 まさか十一年前にやらかした泥酔粗相という重罪がこんな過激な罰ゲームになって返ってくるなんて。

 しかたなくわたくしは仕事を辞めてパタヤを去ることにいたしました。三年前のことです。

 そしていったん日本に戻ってこの本の翻訳制作費用を稼ぎ、ようやく去年から本格的な翻訳作業に着手したというわけです。依頼を受けてから完成まで四年四ヶ月、長かったです。

 懲役四年四ヶ月の刑期がようやく終わったような気がします。この四年四ヶ月間、規則正しく毎日翻訳する暮らしを送っているうちにみるみる健康になって、体脂肪だけで十五キロ以上減って生まれてはじめて腹筋割れるし常時上一六〇超えてた血圧が四〇以上下がるしでダイエット本出せるレベルですよもう自分で言うのも何だけど模範囚だったよね俺。 


 マジでシャバの空気うめー、って感じッスよ。


 さて、依頼を受けてから四年四ヶ月間、関係者様とはテキストのデジタルデータを提供してもらったりなど連絡はとっていましたが基本的に放置されておりました。

 なので当然ながら今の今まで、ナワラット先生との交流はまったくありません。もしかしたらナワラット先生ご本人も、現時点で自分の作品の日本語翻訳作業が何年にもわたって進行中だという事実自体ご存知でないといういきなりサプライズの可能性もあります。

 というわけなのでこの作品がリリースされて万一先生と再会することがあれば、あらためて初対面のときの非礼をお詫びしたいと思っております。

 もうね。この四年半、それだけが楽しみでちまちま地味に翻訳してきたのよ。


 先生、十五年前のあの酔っぱらいのこと覚えてるかな。



    令和二年二月二十二日

                                   白石昇